時は西暦1995年1月8日. 大学院修士課程の最初の1年が,暮れつつあったこの日. ボクは,オーストラリアのタスマニア島の港街,ホバート(写真)にいた. KH-94-4航海に,Leg3から参加するためである. いきなり,「業界用語」っぽい言葉を使ったので,説明せねばなるまい. 「KH-94-4」, これは航海番号を表す名称で,KHは,海洋研究所(頭文字K)所有の研究船,白鳳丸(頭文字H:現在は海洋研究開発機構所属)の航海を意味する. そして,94は年度,4は航海の回数を表している. つまり,「KH-94-4」は「海洋研・白鳳丸の1994年度の4番目の航海」という意味である.ボクが知る限り,他の研究調査船でも似たような表記を使っているので,一度覚えてしまえば,読み方で苦労することはないだろう. 「Leg」というのは,航海日程の一区切りを表す. 数ヶ月に及ぶ研究航海は,いくつかのLeg(それぞれ数週間程度)に分かれることが一般的なのだ.LegとLegの合間は,数日間どこかの港に停泊し,そこで研究者の入れ替えや,食料の補給などが行なわれる. ちなみに,KH-94-4次航海の日程は,以下のようになっていた.
このうち,ボクは,Leg3から途中参加して,そのまま 東京に帰ってくるので,34日間,停泊している日数も加えると,37日間,白鳳丸にお世話になることになる. 全行程8683 16000km海の上を走るのだ. 地球を一周すると40000kmだから,地球を5分の2周するのか! (当時はすごいと思ったけど,通勤などで車を運転するようになって,全走行距離が余裕で80000kmを越えていたりする今となっては,たいしたことがなかったような気もすると同時に,地球が意外に小さく思えたりもする) さて,真冬の東京と違って,南半球のここホバートは,夏真っ盛り. ・・・のはずなのだが,なぜだかボクには,「暑かった」という記憶がない. 当時の写真を見ても,ホバートのボクは,厚手のトレーナを着込んで佇んでいる. 南緯40度以南にあるタスマニア島の位置は,ちょうど北半球の北海道と同じくらいの高緯度なワケであり,夏といえども,ボクの細身には,ホバートの さてさて,ホバート港に停泊中の白鳳丸に到着し,自分の船室に荷物を置いて早々,ボクは街へ出た. 目覚まし時計を買うためである. 後で詳しく述べると思うが,船上の作業は24時間体制である.むろん人は24時間戦えないので,作業を交替で行うことになる. この分業を,船では「作業ワッチ」という. 何でワッチというのか,そもそもこれは,何かの略語なのか,英語なのか,実はよく知らないのだが,・・・とにかく,例えば採水作業を,8時から0時まで,0時から4時まで,4時から8時まで,という具合に時間ごと,あるいは作業回数ごとに分けて,それぞれの時間帯に人数を割り振るのである. 割り当てられた時間帯が,普段起きている時間ならば問題ないのだが,午前4時からの作業に割り当てられた場合,少なくともボクの場合,己の力のみで目を覚ますのは不可能である.冷徹に秒を刻み,時来たれば,仮借なく持ち主の安眠を妨害する,目覚まし時計クンの助けなしでは. にもかかわらず,ボクは,目覚まし時計を持ってきてなかったことに気づいた. 万全の用意をして旅立ったはずなのだが・・・ が,過去の己のポカミスを責めている時ではない. 幸いにも,まだ船は出ていない. 下船名簿の欄に名前を書き,タラップを降りて再び陸上,業界用語では「オカ」の上の人となった次第である. 写真を見てもらえば分かるが,ホバートはとても奇麗な街並だった. しかし,似たような建物が多く,どれが店なのか,住宅なのか,イマイチ分からない. これは,どこに時計屋があるか,道行く人に聞くしかない 「・・・そういえば時計屋って,英語で,なんていうんだ?」 受験戦士だった頃,ボクは英語が得意だった. ああ,それなのに,こういう日常会話的な単語が出てこなかったりする. 緯度latitudeとか経度longitudeとかは出てくるのにね. 持参したポケットタイプの和英辞典を見ると 「clockmakers'」 とあった. 「クロックメイカーズ,つまり”時計職人たちの”って,こと? でも ”の” で終るのって,なんかおかしくない? ”の” の後になんかつくんじゃないの?」 が,ここら辺のニュアンスはネイティブにしか分からないものなのかもしれない. 例えば,”時計屋”という日本語だって 「日本語でshopは”ミセ”なのに,どうしてトケイ・ミセでなくて,トケイ・ヤなの?」 と外国出身の人に聞かれたら,上手く説明できないと思う. さて,道行く人に声をかけようとしたが,意外と人通りがすくないのだ. 声をかけるにしても,怖そうな人とかは避けたい. 若い女性もご法度だ.考えすぎかもしれないが,変な誤解を生んで, 「見知らぬ外国人が私に,悪さをしようと近づいてきた」 と言われて,ゴートゥージェイル,なんて事態は絶対に避けなければ. ボクは無難そうな,メガネをかけた初老の男性に声をかけた. 「Excuse me」 向こうが立ち止まる.緊張感が伝わってきた. やはり,古今東西を問わず,見知らぬ外国人に話しかけられれば,緊張するのは自然なことらしい.それを見てボクの方も緊張した. 恐れるな自分.今からする会話は,中学生レベルの会話じゃないか! 「Where is clockmaker's?」 ボクは質問した.精一杯の発音で. そばに日本人がいたら, 「アイツの発音,なんかカッコつけすぎじゃない?」 と言われそうなくらい,キザったらしい発音で. すると,おじいさんは眉を曇らせて・・・ 「What?」 ええっ! つうじてねーっ! 渾身の必殺発音で通じねー 自己ベストでこれなのだ.これ以上どうしたらいいのだろう. ・・・いや,もしかしたら,いや多分,いやいや絶対に,ボクの発音が悪いんじゃなくて,ボクが持っている和英辞典が駄目なのだ. 小さい辞書である.全部書いたら紙面が足りないから 「Clockmakers' shop」を「Clockmakers'」と,ハショって書いてあったに違いないのだ! 期待をこめて,第二波発動.ボクは,ユックリと,こう言った. 「Clock, makers' shop」 「・・・・・・」 一瞬(しかしボクにとっては嫌なくらい長く感じられた)の沈黙の後,彼は口を開いた. 「Watch my car」 (え?),今度はボクが沈黙する番だった(今なんつった?) 「見ろ 私の 車」 つまり,「私の車を見ろ」と. どうして,ボクがアナタの車を・・・ が,ここで,教養豊かな(?)マイ・ブレインが,ようやっと本来の機能を発揮した. ここには,二つの巧妙な罠がしかけてあったのだ. 「Watch」 この単語には,「見る」という意味の他に,ウォッチ,つまり腕時計という意味もある. そして,「My car」であるが,これはオーストラリアならでは事情があったのだ. オージーイングリッシュをご存知だろうか? いわく,「オーストラリアの人たちは,Aをエイとは発音せずに,アイと発音する習慣がある.たとえば,todayはトゥデイと言わず,トゥダイと言う」,というヤツである. ボクが,my carと勘違いしたのは.マイカー,つまりmakers'のオーストラリア訛りの発音だったのだ.ちなみにボクの耳では...s'のsはまったく聞き取れなかった. ナゾは全て解決した.つまり彼は 「Watchmakers'? (腕時計屋さんのこと?)」 と,ボクに聞き返していたのだ. その後,どういう会話をしたのか覚えていないのだが,ちゃんと時計を買って船に戻ってきたのは確かである. ちなみに,当時持っていた和英辞典を確かめてみると,時計屋さんに対応する単語として,”clockmakers'”の次に,”watchmakers'”も表記されていた.当時のボクは,最初の単語にだけ目を通していたワケだ. そして,オーストラリア,あるいは少なくともホバートでは,「時計屋」を意味する単語としては,”clockmakers'”よりも,”watchmakers'”の方が一般的なのかもしれない. 外国の人に,「トケーテン ドコデスカ?」と聞かれたら (トケーテン? 時計店,ああ時計屋のことね) と,一瞬何のことか分からないかもしれない,そんな感じなのかなと思っている. この話は,オーストラリア特有の発音が原因で,あまりに典型的な勘違いをしているため,「どうせ作り話だろ」,と思われてしまうかも知らないが,ウソみたいなホントの話である. どうしても信じられないなら,ホバートへ行って,メガネをかけた初老の男性に聞いてみるといい. 「時計屋はどこですか?」ってね. (つづく)
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